滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者も多い。私は、私について滅びに通じる門に近いく、入る者も多い。自らの人生について振り返って、私の人生は全てが美しい訳ではなかった。私はこの何十年の内に自らの間違えに気づいています。私は、もう、毎日、毎日、泣きつかれました、既に角が丸くなっています。私は、自分の人生について、親身になっています。私の最後の結末も、すでにボロボロ為に、以下仕方ない事だと思っています。イエス様は私を知らないのでしょう。立ち去れと、もし、私に向かって言ったのだとしても、私が清い者に見えなかったからですか?私は、父親と母親の子です。私は、人生が汚れてしまっただけで、自分の血族には間違い有りません。私は、父と母の子です。人生の荒波に揉まれて汚れてしまっただけで、それでも、イエス・キリストを信じています。私の顔を見て下さい。この涙の跡を、涙は私を証明しています。貴方の事が大好きです。私は、聖書を読むだけで、自らにもイエス・キリストについて安心と真剣と親身になります。私は、イエス様の考えだけで、自信を持ち、人に立ち向かえるようになりました。イエス様の考えに共感します。私の人生の経験はとても多く、深かった。私は人に教えるに失敗の数が多く、貴方の様に後輩より先生みたいな様だった。私に向かって来ても、結局は、私の様に火の試練の為に走り回って、親の顔を傷つけるのか?それとも、私の全て疑うのか?それなら、私に対して疑えは疑うほど正直、疑いが出てくる。結果泣きつずけるか、最後は感動するか?それとも、仏教か宗教に染まり、ずっとお経などを唱え続けたり、取り憑かれたようにお祓いずけになるのか?死ねと言ってるものの、失う事を知らぬ貴方に、身近な人を失って気づくのか?火の試練なんて色々あるって思っています。神様。